君の事思い出す日なんてないのは
君の事忘れた事がないから
- 浜崎あゆみ「HANABI」 -
思い出したってことは、忘れてたってこと。思い出せるってことは、忘れてないってこと。たぶん好きだろうなと思っていたけど、やっぱり大好きな映画になった。もうこれは松居大悟監督ご本人が「きっと花束みたいとか⾊々⾔われるんだろうな。⾔われるよもう。⾔われる前に⾔うよ。でも当たってるしなぁ。」的なことを言っているので、もはや公式見解と言えなくもないけど、マジで2022年の『花束みたいな恋をした』だったし、立ち位置的に近い位置にいると思う。だけど、時系列を順に振り返るのか逆に遡るのか、映画にインスパイアされて曲が産まれたのか、曲にインスパイアされて映画が産まれたのかなど、対になる部分も多い気がする。そして、花束だけでなく、2022年の『ナイト・オン・ザ・プラネット』でもある、らしい。(らしいというのは、僕はナイト・オン・ザ・プラネットを観れていないので判断がつかない)
ナイト・オン・ザ・プラネット(字幕版)
ただ、『花束~』と比べて、やっぱり主人公たちの年齢的な面と雰囲気的な部分で、結構手触りが変わってきますよね。花束より大人の、花束の数年後とも言えるような、しっぽりとした過去回想というような、体温がいい意味で低い感じ。もう大人は「エモい」に逃げられないんですよ。というか、過去の振り返り方が完全にある程度年をとったひとのそれだと思っている。ほら、なんか若い頃って思い出を塊でまるごと思い出せるけど、年取ってからだと、去年の今頃ってどうしてたっけ?
という具合に、ひとつずつ近いところから紐解いていかないと、思い出せないじゃないですかァ。そして、このひとつずつ紐解いていく感覚は、今作の時系列の遡りかたと同じのため、観客にも共有されることで、照生(池松壮亮)と葉(伊藤沙莉)の別れから出会いがどうなっていくのだろうという、ある意味紐解きでもあり答え合わせみたいな面白さがある。ま、この答え合わせがだんだん辛くなってくるんですけどねー。
恋の始まりと終わり。終わりを予感しながら始まりへ戻る旅。何事にも年齢は関係ない、関係ないけど、恋が終わったタイミングが20代か30代かの違いってやっぱり重みが違うよね...。未来に希望を抱き易い20代に比べ、30代は未来を夢見る前にまず現在地の肯定から…みたいにはなっちゃいます。そう考えると、花束の菅田将暉&有村架純って眩しすぎるけど、今作の池松壮亮と伊藤沙莉は、こう絶妙な哀愁が漂っているので素晴らしい配役。池松くんも伊藤沙莉ちゃんも、まあ余白を語るにはじゅうぶんすぎるふたりでした。
2021年7月26日。この日が34歳の誕生日だった照生は、朝起きて、サボテンに水をあげて、ラジオ体操をして、ステージ照明の仕事でダンサーに照明を当てている。その一方、タクシー運転手の葉は、ミュージシャンの男を乗せて東京の街を走る途中でトイレに行きたいという男を降ろしたあと、自分もどこからか聴こえてくる足音に吸い込まれるように歩いて行くと、ステージで踊る照生の姿を見つけるところから物語は語られる。すると1年前に時は遡り、2020年7月26日ではそれぞれが......という具合に、今作は照生の誕生日である1日だけにフォーカスをあてて、2022年ではこう、2021年ではこうと振り返るので、残り364日に何があったかはわからない。
つまり、その間に何があったのかっていうのは想像するしかないんだけど、まあ池松くんと伊藤沙莉ちゃんなので、空気とかでわかります。その誕生日の1日だけを描くので、逆に多くの恋愛映画で描かれそうなシーンが描かれないみたいなことも起ります。でも今となっては結果的に良かったと思っている部分もある。だってこれ、ちゃんと真正面から描かれていたら致死量だったもんたぶん。
事前情報で何年ぶん振り返るのか、いつ頃から付き合っていつ頃に別れたのかを知らないまま鑑賞したので、正直最初は戸惑った部分はある。だけど検温、マスクなどのコロナ対策描写に明確な"今"を感じさせるし、タクシーの様子を見て、そうそう東京五輪に合わせてワゴンみたいなデカいタクシー増えたよなとか、同じように僕らも過去の記憶の海へ潜り始めていく。また同時に、このタイミングでビニールの仕切りをつけたんだっけとか、ああ布マスクの時代あったなとか、既に幾つか忘れつつあった出来事もあったと気付かされる。思い返さないと、忘れちゃうんだよね、ひとって。過去に遡るたびに、変わるもの変わらないものが段々と見えてくるけど、なんとなく葉のほうはタクシーや髪型とか変わっているけど、照生は(マイナーチェンジはしてるが)あんまり変わってなくて…色々とこういうとこからズレてしまったのかなと思ったりもした。
あとは長髪の池松くんが悪くないけど微妙にそんなに似合ってない感が絶妙だった。いや池松壮亮のことだから表情とか佇まいで、微妙な感じにしてた気もするけど。その何とも言えない格好悪さが、現実味とか境遇の難しさが伝わると同時に、髪切った松壮亮というかいつもの池松壮亮ビジュアルの照生に対して、ポジティブな印象を抱くのに一役買っている印象がある。
大人はエモに逃げられないし、もう引きずったりしない。したけど、しない。別れから出会いに向かって描くとうことは、辛い時期から幸せだった頃に遡るわけで。だから映画のなかでは眩しくてもうキュン~~みたいになっても、同時にこんな時もあったのか、でも終わっちゃうんだよな切ないなみたいな感じになるので、画面の盛り上がりと気持ちの盛り上がりが反比例というか、なんとなくプラマイゼロになる。そのため、あんまりお涙頂戴的空気はなくて、比較的冷静なままというかドライな感じで進むんだけど、やっぱり照生と葉と一緒に何年分も振り返るとですね、こちらにも色々蓄積されるものがありましてね......。結構耐えていたけど終盤で決壊した、堪え切れなかった。長男だけど耐えきれなかった──。
今があるのは過去があるから。ここに辿り着いたのも、これまでがあったから。そんな過去に対して、美化も後悔も否定もしない。僕たちは大人になってしまったから。でも、かつて同じ素敵な時を過ごして、今も同じ空の下で進む僕たちにも、たまにはこういう日があってもいい。これは縋ってもないし浸ってもない。戻らないあの日と、今を進むなかで起こった偶然のいたずらに、ただ、ちょっと思い出しただけ。
以下、ネタバレありでちょっとだけ
照生がひとりでいつものバーに行ったときに、プレゼントされたケーキを口に入りきらない大きさで食べようとする感じが、結婚式でウェディングケーキのファーストバイトを思い出して、そしたらかつて「来年の誕生日にプロポーズする」と語っていたことが叶わなかったんだなと改めて気付かされて泣いた。
照生の誕生日にケーキを購入して、ちゃんと別日に食べる葉、対応として完璧すぎる。
葉の変えられないLINEアイコンと照生の外せないバレッタで、ふたりがどういう風に別れたのかなをなんとなく想像できちゃうの辛すぎる。
永瀬正敏が待ち続けるのと、國村隼が大人になってもしっかり恋愛をしているのを見て、恋が始まるのは、かつてどんな過去があってもコロナがあっても、変わらないものだってきっとあるということだ。照生がこれからどうなるかはわからないけど、なんとなく居場所がある限り、きっと大丈夫だと思う。
最後の「どこかで会いましたよね?」と質問したミュージシャンと照生は、たぶん完全には噛み合ってない、ミュージシャン側は照生が新人のころの話だと思ってるし、照生はあのダンスをしたときの弾き語りの話だと思っているけど、まあ嚙み合わなくたって、思い出は自分の中にあるので、過去が成仏?することで救われることはあるんですよね。同時に、たぶん照生はあの感じは気付いているよね。つれぇぇ
河合優実さんはかなりバレエダンサー顔
一度見てからだと、あのポスタービジュアルはやばい
クリープハイプ聴いて今夜は寝よう。もう朝になっちゃいそうだから。次の日は、やってくるものだから。
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