『彼女が好きなものは』
超最高の青春映画『世界でいちばん長い写真』の草野翔吾監督と聞いて、結構期待して鑑賞したけど、めちゃめちゃ良かったと思う。山田杏奈ァ!
と叫びたくなるくらいに可愛くて、神尾楓珠様…と声を漏らしてしまうくらい美しい横顔だった。だけど、そんなノリを許さないくらいに真摯で誠実な映画でもあった。映像も綺麗だし、起承転結もスムーズだし、オチも泣かせるし。だけど軽々しく傑作だと言い切れないような気持ちになっている。いやだってさ、感想を言ったら自分の浅さを突きつけられるような気がするもん。僕は、下手したら劇中での地獄のホームルームディスカッションのような空虚で傲慢なことしか言えないかもしれないから…。
本当はあまり何も言いたくはない。言いたくはないんだけど、まずは、その自分の捉えきれなさや浅さと向き合うことから始めなくてはならないのだと、この映画に言われたような気もする。だから備忘録として書くことにします、、、。ネタバレあり。
彼女が好きなものはホモであって僕ではない (角川文庫)
なんというか、僕は全然わかってなかったんだな、と思わせ続けられた映画だった。主人公の純はゲイの高校生で、彼に恋する三浦さんはBL好きなクラスメイトの女の子。ひょんなことから出会い、秘密を共有して、自分の抱えていたコンプレックスとかトラウマとか、そのほかまるまるまとめて受け止めた純に惹かれていく。今までもよく見てきたような出会いから恋までの流れだ。ただそれを同性愛を描く作品で僕は見たことがなかった。きっとあったのだろうけど、目に入ってこなかったのだろう。
そもそも、この同性愛とか同性婚という言葉も、同性とわざわざ表記するのが、異性恋愛前提の言葉だよなあと映画を見て気づかされた。劇中、純が見かける広告がどれも男女の2人組ばかりだというシーンがある。ある程度マスに向けた広告だと、どうしても人数が多いところターゲットにするからマジョリティ中心のアプローチになる事情はあるにせよ、社会から自分は対象として認識されていないのではと感じるかもしれない。いかに今の世の中が異性愛を前提として構築されているか、マジョリティ側にいると見過ごしてしまうような、細かな、だけど重要な事実を提示する。今作では鑑賞前にある程度テーマを知って見ているので、ああこれもそれもと感じ取れるけど、実際に生活を送ってるときには何も思わず気づかずにいた事例も多かったのだろうと思わされる。
そんな純を演じた神尾楓珠くんは、何かあったらスッと刺しそうな危うさと、違う世界を生きているような近寄り難さ、その相乗効果で生まれる神秘的で触れられない空気がある。同時に、その瞳で見定めたのなら、きっとそれは大丈夫なのだとも思えるような視線がなんて澄んでることよ。淡々と物事を捉えながら、随所に処理しきれない葛藤を抱える高校生を演じきったと思う。透明感と透明な壁を一緒に出せる稀有な存在だ。あとビジュアルがお強い!
三浦さん役の山田杏奈は本当に良くて眩しくて、僕はもう好きになってしまいそうです。好きを好きのまま輝かせてるのはいつだって素敵で、このひとは動けば動くほど可愛い。なんだあのロックユーは。なんだあのWピースは。『ひらいて』では暗黒山田だったけど、今作は光杏奈なので明るい風を映画に吹き込み続けておりました。知りたくって近づいて、嬉しそうに笑って、変わって変わらずそばに居て。終盤の大立ち回りは、ともすれば嘘っぽくなってしまうシーンになってしまうけれど、それまでの積み重ねがあるから、真っ直ぐ言葉が届く。その瞳から仕草から、真っ直ぐに届く。
BLUE 山田杏奈セカンド写真集 (B.L.T.MOOK) [ 山田杏奈 ]
正直なところ、僕はゲイのひとの恋愛に対して、どちらかといえば「同性を好きであることを認めてほしい」という気持ちが強いのだと認識をしていた。少ない観測範囲ではあるが、ニュースとかTwitterとかで見る意見はその方向性のものが多い印象だったような気がしていたから。だから「異性を好きになりたい」という願望を抱いている点に関しては少し意外でもあった。が、たしかにこの環境下では、まずはそうなるよな…と今なら思う。そして現在は自分らしさを獲得しているひとも、そういう葛藤を経てからの発言なのかもしれない。
それは「ゲイってこうだから」という具合にラベリング、記号化してきたのだと思う。劇中の言葉を借りれば、それは複雑な事を無視して”世界を簡単にしてしまう”ことで、今作はそれを否定する。「これだから腐女子はって思った」と問いかけた三浦さんに、純は「これだから三浦さんはって思った」と訂正する。あくまで向き合うのは、ひとりの存在としてで、そこに記号は意味をなさない。だから当然、普通になりたいゲイもいるし、自分が好きなものを認められたいゲイもいるのだ。
今作はふたつの恋愛が描かれる。ひとつがゲイと腐女子の恋。もうひとつがゲイ同士の恋。前者に関しては、事情を知る視聴者からすると、君は本当にそれで大丈夫なのかという気持ちと、外から見てると楽しそうな瞬間も眩い瞬間もある。
水槽越し、ガラス越し。告白もキスも幻想的ながら示唆的で、、、。まるで見えない壁のような。純は三浦さんとひととして深いところにいけばいくほど、嬉しさも罪悪感も倍になっていくような。恋愛ではなくても過ごした時間が楽しいものであってほしいし、それは真の意味では想いがすれ違っている状態で。
逆に後者は純が本当に安心しきって幸せそうで情熱的で想いあってるのはわかるのだが、常に傷つけている誰かが想像できてしまうというか、セクシャリティ関係なく不倫は良くないという気持ちになる。しかし、誠さんにとって、たぶん今よりもっと理解が進んでなかった時代を生きたひとにとって、異性結婚は生きるために不可欠だったのかもしれない。だから不倫とはいえ少し事情が違うのではと思いつつ、いや本当に性差をなくすなら、どんな性別相手でも不倫は不倫なのかと相反する感情を抱いてしまう。
純の願いは切実だし境遇を加味してしまい責めづらい点があるが、とはいえ、彼女の三浦さんからしたら、そりゃ怒るだろうということをやっているとは思う。状況だけ見てしまうと、わかっていながら妻子持ちの男と関係を切れず、わかっていながら性的対象ではない女の子とも関係を持ち、バレたら開き直るという。だから小野くんがああいう対応をとる心情はわからんでもない。(ただアウティングはダメだが)(その後の小野くんを見る限りは本人は反省してはいるようだが)(とはいえそれによって取り返しのつかないことになっていた可能性はあるわけで…)
あと誠さんも、なんというか、結構ずるい大人だよなぁ。ただ同時に純にいろいろなものを与えているので完全に悪人とは言い切れない部分もあり、、、。しかし、既婚者妻子持ちが高校生と関係を持つという構図、(パワーバランスがあるので完全な対比ではないけど)妻子持ち男性と女子高性だと、また違った感情を抱いてしまうことは否定できず。ただ、別れ際に、川に妻と君が溺れたら妻を助けるよというのは、現実であり優しさだったのかなと思う。次に進みやすくするための。そういえば駅で三浦さんも「私が振ったんだよ」と言っていたっけ。
これは推測だけど、意図的に小野くんも誠さんも、良い人にも悪いひとにもしすぎないように気をつけて描かれていたと思う。ひとが持つ要素は多面的で、その側面のひとつを描くけど、同時にそれがそのひとの全てではないということを伝えるためというか。それこそ、ひとつの要素、シーンだけで判断するのは、今作の趣旨とは反するので。例えば小野くんで言えば、ホモフォビアに見えるし、純がゲイと分かる前から敵視はしていて、友達想いでもあり、怖いとことろが嫌いで、直接会いにいかないくらいの配慮はあって意気地は無くて、みたいな。それらを総合的に判断して、許す許さないは、各々が決めるしかないのだけど。
「ソーシャルディスタンス」冒頭に差し込まれたワードは、映画をコロナ渦の現在と地続きにし、マスクがないことで未来の話にも見える。現実で解決されていない問題に、フラットな視点で描くのには葛藤があったかと思う。
配慮は距離を生む。良くも悪くも。マイノリティと向き合うのは…いや、そもそも他者と向き合うのは、どうしても摩擦が伴う。そして摩擦があるなかで向き合うのは決して楽ではない。非当事者の立場から、正しいとされる価値観を語るほうが楽だろう。方程式を解くのとは違う現実で、一律の正しさでは解決しないことは多々ある。その曖昧さを埋める気遣いは必要でも、マイノリティだからと気を遣うのは違うわけで。ただ、完全に変わらず接しても、それが伝わるかも、また別問題で、、、。それは、一貫して純に対して態度が変わらなかった小野くんへのクラスの反応が示しており、複雑な気持ちになってしまう。
でも、それでも。
いつか男とか女とか関係なくなるくらいに愛し合おうよ
- 『死神』大森靖子
男とか女とか関係ない、とは言えない。現に関係があるから、こんなに苦しいのだから。だけど「関係ない」ではなくて、「関係なくなるくらい」なら…
僕たちはたぶんわかりあえない。きっとわかるなんて傲慢なことはもう言えない。誰もがみんな違って、世界はもっと複雑で。だけど、わからないに向き合って、わかりたいを諦めない。そこに横たわる差を自覚して、手を伸ばし続ける。想像する。そして偏見や先入観を超えた先に、ゲイと腐女子の物語は、君と私の物語へと変わる。客観的視点を持って捉えられていた前半と、当事者以外の人間の視点が加えられ、その波は観客にも拡がっていく。それぞれが想いを胸に抱えた先、最後の演説に込められた映画的飛躍。たとえそれがファンタジーだとしても、この複雑な世界で輝く、その“好き”を信じてみたいんだ。
ただ同時に忘れてはいけないのは、この物語がきっとゲイの総意ではないということだ。もし総意としてしまったら、それは摩擦をなくし、世界を簡単にしてしまうことだから。これはあくまで純の物語。純みたいなことを考えるひともきっと世の中にはいるし、純とは違う考えのひともきっといる。だからこれは“彼の場合”のお話。純に話しかけてきた後輩のゲイの青年が今後どうするかはわからないし、あの時点でもカムアウトしていないマイノリティがいる可能性があるのだから。それに、多分意図的に、僕みたいな未熟者にも届くように、わかりやすくハードなアウティング、無理解な親、タイトルの変遷含むホモとゲイの話など描かれているので、嫌な気持ちになる場合もあると思う。ただ今の僕には、万人には届かないかもしれないけど、世界は想像以上に複雑で、それを改めて実感できただけでも価値があった作品だった。たぶんこれでは足りないのだけど。
最後に、純を、シリアスな空気になる今作を、その明るさで支え続けた亮平がマジで最高だったと記しておきたい。
『彼女が好きなものは』見てきました。めちゃめちゃによかったです。草野翔吾監督は、今作の前田旺志郎といい、前作『世界でいちばん長い写真』の前原滉のいい、超いいやつな友人を生み出す天才なのか…#彼女が好きなものは pic.twitter.com/lf85oQdeRd
— オガワヘヴンリー (@k_ogaga) December 1, 2021
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