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『あのこは貴族』感想

(C)山内マリコ/集英社・「あのこは貴族」製作委員会

『あのこは貴族』

 

総合:★★★★★

美女4人揃い踏みでほんと眼福で最高!(そういう話ではありません)

 

 

※以下、文章中に登場する台詞はうろ覚えです

 

 

- レビュー -

 

 

『花束みたいな恋をした』で麦くんの話ばかりしたから、今度は麦ちゃんの話をしようぜ。

 

都民でもない、女性でもない、お前に何がわかるのだ!と言われると恐縮なのだが、しかし、それでもなんだか気持ちがわかる!と言いたくなる映画だ。もちろん全部はわからない、だけどこの部分は確かにわかる。そんな、違いを抱えながらも交差した共鳴を描いた話なのかもしれない。

 

同じ空の下、私たちは違う階層を生きている

 

ポスターにはこんなコピーが記されている。この映画は、生まれも育ちも東京、つまり地元が東京、金持ちの奴だいたい友達…(ではない)東京の箱入り娘である麦じゃなくて華子と、地方出身者で上京して東京の荒波のなかを生き抜こうとする美紀の物語である。華子を門脇麦、美紀を水原希子が演じるのだが、

 

  

水原希子本人もインタビューとかでよく言われると答えていたけど、マジで配役逆じゃない? と思っていました。だって水原希子ってもう存在そのものが眩しいんだもん。あと門脇麦がどちらかというと、煌びやかな存在と対になるような現実と地続きで群青色みたいなときこそ光り輝くという印象だったから、それが田舎出身者じゃないって…と感じていた。だけどこれって勝手に「都会に住んでいる裕福なひとは楽しく華やかに生きているんだろう」という先入観ゆえの認識なのである。

 

階層は違う。だけどそれぞれに悩みはある。

 

僕の狭い交友関係のなかじゃ、この映画ほど階層を感じる出会いはない、むしろ出会えないことが階層なのだが、それでもなんとなく文化圏が違うひとというのは存在している。そしてなんだかんだ言って、それなりに近い世界の住人と関係が続いている気がする。そりゃ毎回5,000円するアフタヌーンティーを嗜むひととプライベートで頻繫に遊べないし、酒、金、セックス毎日が同窓会だぜウェーイみたいなマイルドヤンキーとも同じ時を過ごすことは難しいと思うからだ。(偏見がひどい)

 

だけど階層が違えど、やっていることは案外同じだったりする。劇中のエピソードでは、例えば華子は婚約相手から自分が結婚相手にふさわしいかどうかを興信所で調べられたことにかなりショックを受けていたが、彼女たちもその相手をFacebookで検索しており、手段の差はあれど動機は同じなのだ。便利だねFacebook怖いねFacebook気をつけようねFacebook。しかしそれこそ見えない壁であり、体に染みついた「普通」の差異なのだ。本人たちが普通と思っている故に可視化されない。

 

雨。

 

濡れないように守られているのか、外に飛び出ることを阻まれているのか。

 

この映画は対比の連続だ。それは異なる点と同じ点を浮かび上がらせる。

 

「日本って女同士を分断させる価値観が普通にまかり通ってるじゃないですか。私そういうの嫌なんです」

 

劇中にこんな台詞がある。そのメッセージそのままに、今作は階層を描きながら対立も分断も描かない。

 

そりゃ違いはあるし、きっと埋まらない。だけど彼女たちはこれまでの日々を否定せず、それぞれの立場で抱える生きづらさを許容する。土地、家族、環境。同じ空の下、違う世界で生きるけど、違う階層で同じような悩みを抱えてもいるのだ。それぞれの日々の積み重ね、それぞれの苦しみ。だけど蓄積された自分の武器というか残った手札で、この街を生きていく。それは諦観とは違う決意。

 

華子には逸子(石橋静河)が、美紀には里英(山下リオ)がいる。最高のシスターフッド。彼女たちの日々に幸せを願わずにはいられないけど、誰かに願われなくても、絶対に前に進んでいるはずってわかる。

 

小道具や服装でパーソナリティが浮かび、表情だけで気持ちが伝わる。意図を感じる配置や高さなど、言葉で語らないパワー。それでいて台詞が印象に残るから強い。映画的で普遍的。淡々とているのにテンポが良くてスッと染み込んでくる。普通と自立と女性性。全編に溢れる優しさ。僕らは違う生き物で、きっと見えない世界があって。だからこそ、認め合う距離感から交差した地点で手を振るんだ。

 

映画を見たあと原作小説も読んだけど、あのシーンがオリジナルだったのかという気持ちと、このシーンも映像で見たかったなという気持ち。原作のエッセンスを抽出しながら映画的に結構改変している。小説のほうが言葉で訴えかけるぶん切実で、映画ではよりエモーショナルを感じた印象。それと、やっぱり美紀は映画でも小説でも格好いい。

 


あのこは貴族 (集英社文庫(日本)) [ 山内 マリコ ]

 

- 以下、ネタバレあり -

 

 

 

 

 

オープニングからあれよあれよとお見合い話が決まるまでの流れるような美しさで、この映画がただならぬものだという気配を感じた。華子の居場所の無さ、居心地の悪さ、疎外間に、流されるままの性格、山中崇だけ少し異質ながら親族として立ち回る感じ含めて、家族間パワーバランスがぜんぶわかる元旦の食事会。

 

雨、タクシー、傘。鳥籠のような傘をさしていた華子が、ビニール傘で歩いて帰る下り道。橋ですれ違うのは、自転車を押す二人組。なんにも説明はないけど全部伝わる美しさ。雨はあがった。

 

そもそも美紀と里英の自転車のシーンが映画オリジナルって、監督の解釈が天才すぎる。ひとりで漕げるものを、ふたり一緒に進むから尊いのよな。あと、逸子のマネージャーになった華子が自分で自動車を運転しているのも最高。かなり自立した感がある。それでいえば華子たちも三輪車を二ケツじゃないけど一緒に進むのも最高。



華子が美紀を呼び止める時も、タクシーという箱から飛び出して、前を走る美紀に呼びかける。部屋に招かれたはいいものの、微妙にぎこちない独特の空気が流れるあの感じ。東京に出てきて、すべて自分で手に入れるしかなかった美紀の部屋を見て「ここには美紀のものだけがある」と感銘を受ける華子。

 

ふたりは並んで東京の象徴である東京タワーを眺める。違う世界で同じ男を見ていたふたり。ここまでふたりの人生の対比を散々映したあとに、この共感性。そしてその接点をキッカケにかけがえのない友になるわけでもない距離感が最高だった。友達にはならなくとも手を取り合わなくても、彼女たちはたしかにあの地点で交差して認め合ったのだと思う。忘れられない出会いなんだ。

 

東京タワーの男、幸一郎にはついに友達が出来なかった。ズブズブで決して手放しで褒められる関係性ではなかったとしても、たぶん幸一郎にとって美紀は本当に救いで友達だった。求められる幸一郎として振る舞う必要がなかった相手だった。華子が美紀が信頼できる友人と自分の世界の外側に向かって歩き出したなか、幸一郎は階段を上がることを(選ぶしかなかったとしても)選び進んでいくのだ。次は男性の番だよというメッセージにも感じるし、最後の表情に希望を抱きたい。

 

女性らしくを勝手に定義付けてきた男性だが、同時に男らしくの呪いを自らに課している。時代が進んだこともあるだろうけど、幸一郎に対する風当たりが、映画は原作よりマイルドになっている。男は男で悩んでいる。ジェンダーもまた違うベクトルでの階層なのだ。

 

華子が幸一郎にちゃんと向き合ってから、離婚するのがとても良い。逃げ出したわけではなく向き合った結果なんだ。もしかして華子と幸一郎の連帯(共感)は、どちらも家族の縛りのなか日々を過ごしていたことかもしれない。「絶対見てないと思った」の華子は素の、思ったことをちゃんとぶつけられる華子だった。だからきっと幸一郎は1年後に声を掛けられたのだと思うし、ふたりはちゃんと笑いあえたのだと思う。

 

この映画は、華子と美紀が自分で笑えるようになるまでの物語。里英に促されて無理やり笑顔を作っていた入学式の美紀、家族写真のあとに孤独と閉塞感で押しつぶされそうだった華子。

 

それぞれの立ち位置。上にのぼるひと、階段を降りたひと、東京を外から眺めるひと。階層が混じり合うことはない。だけど確かに交わった点は存在した。あらゆる場所でも、その場所その場所の縛りがある。そんな呪縛から自分を解放するために、自分を好きになるために、そっと背中を押す作品だ。美紀がかつて価格に唖然とした思い出のアフタヌーンティーがあった東京のビルを見て、それが憧れでも幻でも東京が好きって言う。それってもう、ちゃんと「今」を好きって言えたことじゃないですか。

 

差が可視化されやすい今の世の中に「誰にでも、いい日も悪い日もある。その日何があったか話せるひとがいるだけで十分なんじゃない?」のセリフが沁みる。 え? 僕? そりゃあ僕にだって話せる先くらいありますよ。Twitterって言うんですけど

 

 

山内マリコ×門脇麦 映画


ここは退屈迎えに来て

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