(C)2019“WE ARE LITTLE ZOMBIES”FILM PARTNERS
『WE ARE LITTLE ZOMBIES』
ビビッドな色彩、美しく不穏な構図、観客に話しかける表現、パワーワードな台詞。あえて例えて言うなら中島哲也を連想させるような。映画の枠組みを超えた作品である。サンダンス映画祭、ベルリン国際映画祭で2冠。短編『そうして私たちはプールに金魚を、』監督の長久允の初長編作品。
行間を想像させる映画というより、行間という行間に情報を流し込む映画だ。視覚的インパクト含めて、言い方が難しいけれど、観客に想像する暇を与えない。脳を情報や衝撃で溺れさせることで、ダイレクトに心に響くのかもしれない。
火葬場で出会った4人。ヒカリ、イシ、タケムラ、イクコ。それぞれ違う事情を抱えながら、共通しているのは全員両親を亡くして涙が出なかったことだ。劇中でも、ヒカリがなぜ泣かないのか、悲しくないのかと問い詰められるシーンもある。
たしかに泣いたり叫んだりはしない。だが、目に見えるだけが感情ではない。隠しているかもしれない、本当に何も感じていないときもあるかもしれない。でも感情がないわけない。若おかみもそうだが、本当は悲しくても悲しく見えないときもある。
きっとヒカリが何も感じてないフリして、達観したフリして、俯瞰して物事を捉えるのは処世術なのだ。不幸に必要なのはユーモアだ。彼らは、降りかかった不幸を、ゲームに例え、音楽に昇華したのか。そして消化されたのか。
ポップカルチャーが消費されていく様子やスマホゾンビ、SNS特定警察等の社会問題に触れるシーンがある。そのあたりは率直に言えば、映画の中でなんとなく停滞した感は否めない。しかし一方で、ここまで周りが変わっても結局なにも変わらない閉塞感、現実感を示しているようにも思える。
だって写真になっちゃえば、あなたは過去になるじゃない。今にしか興味がない。いつ行くの、今でしょ。
ゾンビだし何やったって自由なのだ。そして同様に、この映画も自由である。夢を持たずに過ごすことを否定しないし、死んでるように生きてる事も否定しない。けど、走るべきときは必ずあるし、コンティニューしないのはダサって思う。
たしかに、はいここクライマックス! というようなカタルシスはないし、結局この4人に劇的な変化があったかどうかはなんとも言えない。歩いた先の見通しは良くないし、何があるか何処に辿り着くかもわからない。この先も、変わらず死んでるように生きる日々が続く可能性もある。けれど、けれども。彼らはゲームを続けることを選んだ。選べたのだ。糞ゲーでも無理ゲーでも続けるのだ。ダサくても古くても敢えて言おう。リトルゾンビーズ、エモいぞ!
生きてるだけで、エモーショナルなんだ!
この作品は、そんなエモーショナルと、稀代のヒロイン中島セナ爆誕の瞬間を全身で浴びる映画なのだ。刮目せよ! そして無差別恋愛しようぜ!(最低)
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