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『四月の永い夢』
監督:中川龍太郎
出演:朝倉あき、三浦貴大、川崎ゆり子 など
3年前に恋人を亡くした27歳の滝本初海。音楽教師を辞めたままの穏やかな日常は、亡くなった彼からの手紙をきっかけに動き出す。
元教え子との遭遇、染物工場で働く青年からの思いがけない告白。そして心の奥の小さな秘密。
――喪失感から緩やかに解放されていく初海の日々が紡がれる。
(公式ホームページより引用)
喪服に桜。始まりの季節なのに、もの悲しく、そして非現実的な印象のポスターと予告編をみて、なにより、朝倉あきに射抜かれて劇場に向かった。
冒頭、モノローグにいきなり引き込まれる。『かぐや姫の物語』でも声優を務めた朝倉あきの声は、柔らかいなかに芯がある。
薄々気付いていたが、この作品は四月の作品ではない。そもそも公開が5月だし、劇中の季節は夏である。
3年前の春に恋人を亡くした元教師の初海(朝倉あき)が、そこから時が止まったような、まるで永い夢のなかにいるような。世界が真っ白になる夢。目の前が真っ白になるような出来事を経たまま、醒めない夢を漂うような。そういった意味合いのタイトルなのだろうか。
正直に告白すると、中川龍太郎監督のことは知らなかったのだが、監督の前作『走れ、絶望に追いつかれない速さで』といい、かなりキャッチーというか言葉の強さが印象的なタイトルである。あとで調べたら中川監督は詩集も出しているらしい。
今作は、とにかく「声」の作品だと思っていて。前述のモノローグの朝倉あきはもちろん、共演の三浦貴大も朴訥としながらも、優しそうな不器用そうな低い声。そして映画のキーアイテムでもあるラジオから流れる声。BGMの代わりにラジオが使われていたのでは、と思ってしまうくらいに印象的である。もっとも、それも意図的に印象に残るように使用していたとも思う。
主人公の初海は分かりやすく閉じこもっている、世界に拒否反応を示しているというわけではない。その証拠に蕎麦屋として遅刻もせずきちんと接客もしているし、人当たりもよい。ただ、どこか立ち止まったままというか、(当然、簡単なことではないのだが)吹っ切れていないというか。囚われてしまっているというか。
失恋をすると髪を切るという話があるけど、あれはある意味踏ん切りがついた、再起を果たして心機一転リセットの意味もあるわけで。そう考えると、初海の髪型は喪服のころから切らずに伸びているようだし、まだ踏ん切りがついていないのかなあ、と。
変な言い方だが、そんな頑なとも言えるような強さを、ですます調の語尾や話し方から感じることができる。また慎重さも相まって、人や出来事からなんとなく距離をとってしまう、そんな初海のひととなりを如実に語る声だった。もっと言えば、人と並ぶ時の距離の取り方や、曖昧な返答のリアリティに加えて、朝倉あきという存在そのものが、あんなに凛としてヒロイン!という面もありながら、底抜けに明るいという感じではなく、影があるというか寝転がるのが似合うというような感じで、これもまたピッタリだった。
俗っぽいことを言えば、手ぬぐいを干している中を歩く朝倉あきのスーパーうなじタイムや、元教え子の楓(川崎ゆり子)との銭湯、浴衣などは眼福であり、田舎の風景や、夏祭り、ちょっとレトロな喫茶店や、ラジオ、手ぬぐいなどノスタルジックな要素も揃えている。そんな落ち着いた静かな映画だからこそ印象的なカットを多く入れているのか飽きさせないし、実は結構色々なことが起こっているのに、駆け足に感じさせない。
少しネタバレになるが、ラジオで音楽を聴くのが好きな初海が、一度だけ、ひとりイヤホンで音楽を聴くシーンがある。一連の流れの中で、初海の高揚感と、そして思うところあって途中で止めてしまう閉塞感が伝わる素晴らしい出来だったが、あのシーンだけは音楽がBGMではなく完全に主役で重要なシーンだと感じさせる。そして、誰に止められるでもなく、立ち止まってしまったことこそ、初海の、この映画の全てだと思うのである。
終盤、亡くなった彼からの手紙をきっかけに、再生へと一歩を踏み出していく。『(500)日のサマー』では夏から秋へ変わったように、きっと永い春を終えて夏へ移り変わるのだろう。
この映画は一歩を踏み出すことを、応援する映画だ。背中を押すというより、優しく手を添える、見守るというほうが近いかもしれない。初海がラストシーンのあの場所に辿り着いたのも、例えば全速力で走ったから間に合った、などといった描写はない。旅に出たから辿り着いたのだ。
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